数千年前
台地は水に乏しく、大部分は灌木、雑木の覆う原生林や痩せた松の疎林が占めていた。
数千年前の台地では、人々は主として漁猟により生計をたてており、古九頭竜湾に面した丘陵地沿いに集落が点在していた。
あわら市舟津(旧芦原町舟津)地区で発見された貝塚は縄文中期のものと推測されている。
中世
丘陵地とその辺の集落は奈良興福寺領となった。この頃になると丘陵地の崖から湧水がみられる所を中心に小集落ができ、その背後の傾斜地を開墾しヒエ・アワ等を栽培するようになった。
明治
小規模ながら個人によって丘陵地の開墾が進められ、麦・大根・菜種・甘藷・茶などの栽培がされてきたが、気候に左右されたり、通作の不便さもあって努力は実らなかった。
大正
大正8年に松平氏は、金津町山室(現あわら市山室)地区に松平試験農場(後の坂井農業高校の実習圃場)を作り、梨・桃・柿等を植え、伝習生を収容し技術の指導・普及に努めた。このことは、周辺のみならず、県下の果樹園芸の発展に大いに貢献した。
昭和
台地上の山林に変化をもたらしたのは、昭和18年の飛行場建設と戦後の緊急開拓事業である。昭和21・22年には食糧増産と引揚者対策として、未墾地の多いこの丘陵地において、約300haの山林を開墾し、約170戸が入植したが苦難の道であった。
昭和30年代になり、食糧事情が緩和し、畑作における甘藷の地位の低下・開拓者の自家飯米確保・生産性の低い畑を水田に転換しようとする農民の念願等から、昭和33〜37年にかけて、団体営土地改良事業
・開拓地改良事業・融資事業等により開田事業がすすめられた。水源は北潟湖や地下水に求めたが、夢にまで見た美田が次々と出来上がった。水稲が作付けられる上に、嫌地の回避・土地の効率的利用等によって農家の収入は飛躍的に増加した。
こうしたことがきっかけとなり「坂井北部丘陵地に水を」を求める声が高まり農地開発と既水田・畑の用水補給・区画整理を国営事業として実施することとなり、昭和44年10月国営坂井北部開拓建設事務所が開設された。国土総合開発法のもとで完成した「九頭竜ダム」の平渇水量も平準化で増量した河川水を、九頭竜川鳴鹿大堰で取水し新江導水路により約15km下流のあわら市矢地(旧金津町矢地)まで導水して、坂井北部丘陵揚水機場にて台地に揚水し、パイプライン方式で各圃場に分配され、農地を潤すこととなった。